「最近僕が見つけたやり方は、“名前をなくす”ことです。たとえば“コップ“は液体を入れて飲むことに使う道具ですが、それ以上のものではありません。でもその名前を取ってしまえば、花瓶やペン立てに使おうとか、金魚を飼おうとか、積み上げて建物を作っちゃおうとか、自由な発想が出てくる。すると結構いろんな使い方が想像できて面白いんですよ。レールが引かれている今の世の中ではすべてのものに名前が付いていて、それが使い方を規定しています。だから、いったん名前を外して『これって何をするものだろう?』と向き合うことにしたんです」
— 初めて考えるときのように | 谷尻誠 | TheFutureTimes (via thresholdnote)
(via muhuhu)
最も言いたいことは、
最も言いたくないことのそばにあると私は思う。
だから、表現というものは
恥ずかしさを伴うものだ。
そこで血を流して、持ち出すか、持ち出さないか。
持ち出してみて、
たとえうまく伝わらなかったとしても、
そのことで、あとで、恥ずかしさにヒリヒリしても、
私は、持ち出して、伝えてみる価値はあると思う。
たとえ、相手に「?」で、
わかってもらえなかったとしても、
「いま、この人は、そうとうの恥ずかしさをおして、
覚悟をもって、それを言ったな」ということは、
なぜか伝わっている。
— ほぼ日刊イトイ新聞 - おとなの小論文教室。 (via tessar) (via tetris) (via yangoku) (via mzdakr) (via bbk0524) (via kondot)
2009-09-03 (via gkojay) (via usaginobike) (via caisuizi705) (via yellowblog) (via lain65) (via usaginobike) (via ibi-s) (via orochix) (via reblrg) (via muhuhu)
Harvard Business Reviewのブログで面白い記事を見つけました。
Y世代(現在23歳から37歳)の標語「好きなことをしよう (follow your passion)」の落とし穴:好きになったり楽しさを感じられるまでには時間がかかり、仕事を選ぶ基準としては機能しない
http://blogs.hbr.org/cs/2012/09/solving_gen_ys_passion_problem.html
世代論の妥当性はともかく「意識が高い」学生に、何かに対する情熱を前提として持っていなければならないという強迫観念があるのではないかと感じることはあります。
この記事で面白いのは、後半にジョブスのスピーチについて触れているところです。ジョブスは有名なスタンフォード大学でのスピーチで、仕事に情熱を持つことの重要性を訴えているわけですが、伝記が示すようにジョブスの情熱の対象は東洋の神秘主義など様々に移り変わっており、現実に起こったことはもっと複雑で、単純な「お話」に還元できないものです。
スピーチなどの「物語」は人間に不可欠なコミュニケーション様式であり、起こったことの意味を人に語り共有することは価値あることです。ただし、自分の人生に予定枠として他者の「物語」をあてはめることについては、危険性があるように思います。
TEDなどのプラットフォームができることによって、物語は流通するようになりました。それに刺激を受けることはよいことですが、長い試行錯誤の結果として得られ、物語として編集された「過去の」情熱や成果を、今から始まる「未来の」選択の前提にすると、かえって可能性を狭めてしまうのではないでしょうか。
今の自分が物語に出てくる人のようでなくても、あせることなく目の前にある現実の中から少しづつましな選択を積み重ねていけば、振り返ったときにそこに物語ができているかもしれません。
物語の「予定枠化」は若い人たちだけのことではないように思います。時代が激しく移り変わる中で、自分を明治維新の英雄に例えたがるおじさんたちもたくさんいます。そのこと自体誰にも迷惑をかけることではないのですが、「自分は坂本龍馬のように生きるのだから○○しなければいけないんだ」というような話を聞くと、「そういう枠を捨てて考えたら違う未来が待っているかもしれないのに」と残念に感じることはあります。
物語から学びながら、物語にしばられない。ーそういう生き方は意外に難しいのかもしれません。
【山内 祐平】
— ylab 山内研究室::Blog
時間というものは一時間あったら50分しか使ってはいけないものだ、とわしは子供の時おそわった。
どんなに根を詰めても10分は休まないとな。
朝の8時から起きて一日を過ごせば、午後8時にはほぼ完全な休息に入らなければ人間は人間でなくなってしまう。
10歳以下の子供なら午後8時はもうベッドに入っている時間である。
眠るためでもあるが、日常とは切り離された時間のなかで、いろいろなことを考えるためです。
日本のひとは時間を隙間なく埋めてしまうのが大好きなようにみえる。
「ぎっちりした時間」が出来上がると、ちょっと嬉しそうだ。
逆に午後4時から午後7時まで「なにもない空白」な時間があると、とても不安になったりしそうである。
この3時間を、どうやってすごせばよいだろう。
ほんとうは、3時間も空いてしまったら、大チャンスなのだから、もしきみが海辺の町で仕事をしているのだったら、ベーカリーによってクリーム・バンを買って、コーヒーのボトルをもって、海辺のベンチに歩いておりていって、ぼんやり海を見ているのが良いのです。
ずっと昔のことを考えて、ああ、あんなことあったなあ、と頭の奥のすみっこで曖昧な輪郭をなしている記憶を呼び起こす。
持っているクルマのサードギアがスムースに入らないのはなぜだろうと思う。
自分にはどんな伴侶が向いているのだろう。
SFって読んだことないけどおもしろいのかな。
文明人の特徴というべきか定義というべきかは、まさにこれであって、文明人で精神が健全なら「3時間」などは、そうやってぼんやりものごとを思い浮かべているだけであっというまに経ってしまう。
そうやって3時間を過ごせないで退屈してしまうひと、というのは、それだけ自分の中の文明が破壊されてしまっているのだと思います。
— 「時間を取り戻す」_経済篇 « ガメ・オベールの日本語練習帳v_大庭亀夫の休日
2011-01-05 (via rurinacci)
(via udn4)
日本人って、刺青とか彫ると「親から貰った体なんだから大事にしろ」っていうけど、長時間労働で体をこわすと「甘ったれんな」「自業自得だ」っていうよな。
— Twitter / rituku (via katoyuu)
(via muhuhu)
「何もしない」「何も本気でやらない」人ほど、全能感は温存される、という話です。
— 全能感を維持するために「なにもしない」人達 - シロクマの屑籠(汎適所属)
2010-01-20 (via thinkupstudio, gatya) (via okadadada)
“「お金のない人にも、せめてカレーくらい食べさせてあげよう」”
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もしも「カレー無料法」ができたら - モジログ (via taizooo)
もしも「カレー無料法」ができたら、何が起きるだろうか。
「カレー無料法」は、「お金のない人にも、せめてカレーくらい食べさせてあげよう」という趣旨の法律。メニューにカレーのある飲食店は、カレーだけは無料にしなければいけない、というもの。
もしこんな法律ができたら、まずカレーチェーンは商売にならないので、消滅するだろう。そして、牛丼チェーンやファミレス、定食屋などでカレーを出している店も、カレーはメニューから消えるだろう。
こうして、カレーを出す店はなくなってしまう。これまで普通にカレーを食べていた人も、カレーを食べられなくなるのだ。
どうしてもカレーを食べたい人は、違法の「裏カレー」を出している店に行く。「裏カレー」は1万円くらいするが、店側も違法を承知でやっていて、摘発されるリスクがあるので、高額になっている。
そのうち、「なんで普通にカレーを食べられないんだ!」という国民の声が強まって、政府はカレーショップに補助金を出すことにする。無料で出してもらうかわりに、政府から1杯500円の補助金が出るのだ。
この「カレー補助金」によって、今度はむしろカレーショップが激増する。カレーチェーンが次々にあらわれ、カレーショップでない飲食店も、ほとんどカレーを出すようになった。
これによって、カレーが好きな人は、いつでも、どこでも、カレーが無料で食べられるようになった。また、特にカレー好きでない人も、カレーならば無料で食べられるので、みなカレーばかり食べるようになった。
いっぽう店の側も、みんなカレーばかり食べるので、カレー以外のメニューは売れなくなっていき、カレーに集中する店が増えてきた。
しかし、経済にフリーランチ(タダメシ)はない。政府は「カレー補助金」のために、膨大な財政支出を強いられることになった。「カレー補助金」自体は1杯500円だが、補助金の支給や、店が過大な申請をしていないかのチェックなどに、多大なコストがかかる。こうしたカレー関連の仕事のために「カレー庁」ができて、カレー庁の職員は日々、申請を受けつけたり、店に調査員を送り込んで、抜き打ちで検査をしたりしている。
「カレー補助金」以降、カレーチェーンの中には大成功して、一部上場したり、経営者が億万長者になる例も出てきた。しかしいっぽうで、国民からは「カレー無料法」を撤廃せよという声も強くなってきた。「カレー補助金」はけっきょく税金から出ているので、カレーをあまり食べない人にはむしろソンになっているからだ。
しかし「カレー無料法」がなくなったら、カレーチェーンには補助金が入らなくなるし、カレー庁も存在意義を失う。そこでカレーチェーンは、カレー庁から天下りを受け入れて、カレー庁を強くバックアップすることにした。カレー庁はこれに力を得て、「お金のない人にもカレーを」というポスターをそこらじゅうに貼ったり、テレビにCMを打ったりした。
またカレー庁は、学者やマスコミ人によびかけて、「お金のない人にもカレーを」のキャンペーンに協力してくれるよう手配した。これが功を奏して、あちこちの新聞や雑誌で、カレー庁寄りの記事があらわれた。こうした記事では、最近増えてきた「カレー無料法」撤廃論は金持ちに味方するもので、お金のない人にカレーを無料で提供することは社会的使命である、といった主張がなされた。テレビのワイドショーでも、人気のある司会者が「お金のない人にも、カレーぐらい食べさせてあげましょうよ」と涙ながらに訴えたりして、視聴者の心を動かした。
弱者に味方する気持ちの強い人は、このようなカレー庁寄りの記事や番組に賛同し、「カレー無料法」に反対する撤廃論者は金持ちの味方だ、と思い込んでしまった。こうして、カレーチェーンとカレー庁のキャンペーンは大成功し、「カレー無料法」を支持しつづける人が増えて、撤廃論は下火になった。
このようにして、「カレーは無料」というのが定着し、あたり前になっていった。カレーは国をあげての一大産業になると同時に、カレー以外の食はだんだん衰退していった。また、カレーが売れた数を水増し請求したり、客と共謀してカレーがたくさん売れたことにする、といった不正も横行した。カレー庁は日々、そうしたチェックに追われ、いくら人手があっても足りないような状態で、カレー庁の職員の数はどんどん増えていった。
こうして、日本の財政支出にしめるカレー関連の予算はしだいに増えていき、明白に財政を圧迫するようになってきた。海外の著名な経済紙などにも、「Curry-crazy Japanese(カレーに狂った日本人)」といった批判記事が出て、日本の狂ったカレー政策が日本経済を失速させている、という指摘があいついだ。
日本在住の外国人や、日本好きな外人観光客などからも、「最近の日本はどこの店もカレーばかりで、せっかくの日本の食文化が台無しだよ」といった失望の声があがるようになった。これは日本人もほとんど全員が思っていたが、いまや日本のカレー政策を表立って批判することはタブーに近く、なかなか批判できなかった。
いまやカレーは国をあげての一大産業になっていて、どこの会社も多かれ少なかれ、カレーショップやカレー庁と取引があるような状態だった。よって、国のカレー政策を批判する場合は、会社に不利益を与える可能性があるので、クビを覚悟しなければならなかった。このため、カレー政策を堂々と批判しているのは、カレー庁のシンパでない学者やジャーナリスト、ベンチャー起業家、匿名のブロガーなどが中心だった。マスコミにカレー政策の批判が載ることはなかった。
以上、「カレー無料法」から始めて、いくらか思考実験してみた。この話の要点は、
1)政府がカレーを規制すれば、カレーの供給が減る
2)政府がカレーに補助金を出せば、カレーの供給は増えるが、本来のコスト以上に税金が使われる
という2点だ。どちらにしても、政府が市場に介入することになるので、市場はねじ曲げられ、市場参加者のインセンティブもゆがんでしまう。そして、
3)いったん法規制ができると、それは既得権益になり、それを崩すのは容易でない
というのが、この話の核心である。特に、<国のカレー政策を批判する場合は、会社に不利益を与える可能性があるので、クビを覚悟しなければならなかった>という部分に注目してほしい。雇用の流動性がない場合、このように「クビがかかってしまう」ので、国の政策を批判することが「タブー」になりやすい。
ここでの「カレー」にあたるものは、別になんでもいい。法規制の背後に、このような「構造」や「力学」があるという例は、少なくないだろう。今回のカレー話はフィクションだが、いま実際にある法規制は、まさに現実である。
(via gza20090909)
— “「お金のない人にも、せめてカレーくらい食べさせてあげよう」” (via ntrs)
(via udn4)
サービス開始当初は、いただける多くのコメントは、
「そんなことあるか(笑」「しかしよく思いつくな」といったように、皆さん「冗談」だと知って楽しんでおられました。
ところがTwitterが流行りだしてから批判的なコメントをいただくことが増えてきて、
私は、いろいろな意味で「冗談の通じない」人たちが増えてきたのだな、と思いました。
「冗談の通じない」人たちは、「冗談が通じない」ゆえに、「冗談が許されない」世界を作ろうとするのです。
言うまでもありませんが、私が書いてきた記事は全てでたらめです。
なぜ私が何年もの間、何の意味もない嘘偽りを書き続けてきたかというと、厄介な正義感のせいかもしれません。
このように「冗談が通じなく」なるほど心忙しい人々に、ほんの少しでもやわらかなユーモアをお届けできないか、と・・・。
ところが、現実は甘くありませんでした。
私が「冗談を続けれ」ば続けるほど、人々の心から「冗談が消え」ていきました。
私なりの不器用な正義感で届けようとした「冗談の数々」が、却って世界から「冗談を奪っ」てしまう・・・。
いつしか私は、私の望まぬうちに、「冗談の仇敵」たる存在へとなっていたようです。
その事実に耐えられなくなりました。
再び『虚構新聞』の記事を書く意欲が湧くまでは更新を休止し、しばらくはこのブログで細々と活動しようと思います。
お騒がせして申し訳ありませんでした。
— けつのあなカラーボーイ 【お詫び】虚構新聞の更新を一時停止します。大きくなりすぎました。 (via 4kshike)
(via udn4)
【斜め上を走りすぎたWILLCOM】
2003年パケット定額→今や常識
2004年フルブラウザ→今や常識
2005年話し放題→今や常識、
W-ZERO3→今や常識スマホ全盛
2008年ウィルコムミーティング→今や常識類似サービスのLINEが大人気
どうしてこうなった……
— Twitter / mag_sho (via gearmann)
(via udn4)
テレビ番組「働くおじさん」は私の世代では有名な教育番組だったのだが。
「その社会見学は、「労働の現場」は教えても、「働かせるおじさん」の側について解説することは決してありませんでした。本当は「働くおじさん」と「働かせるおじさん」が対になって会社組織が成り立っているわけですが、取り上げられるのはいつも「働くおじさん」ばかり。そして、技術とかモノ造りを賛美して、子供に労働者になることの素晴らしさを教える番組が毎週放映されていました。」
これは今も大して変わらない。「プロジェクトX」や「プロフェッショナル 仕事の流儀」も現場やモノ作りの尊さばかりを取り上げる。経営の視点というのはしばしば悪者だ。著者は学校とは国家の政策と企業の成長に奉仕する労働者の養成機関であるという本質を改めて指摘している。
「学校の教師は、労働者としての道を歩むのに必要な情報を提供はしても、お金持ちになるための情報は提供しませんし、またそのノウハウも持ち合わせていません。彼らが提供するのは、すでに色褪せて、今はもう期限切れで使えなくなった学歴という成功への切符だけです。なぜなら、教師自身が、労働者であり、お金持ちになるための勉強をしてこなかったからです。」
面白い本だなと思う。
フリーターや派遣労働者の問題を本当に解決するのは、経済支援や職業教育ではなくて、こういうお金の教育かもしれない。
—
借金の底なし沼で知ったお金の味 25歳フリーター、借金1億2千万円、利息24%からの生還記 - 情報考学 Passion For The Future (via deli-hell-me) (via yaruo)
2009-05-27
(via gkojax-text) (via yaruo) (via pp1beat) (via puruhime) (via sivamuramai) (via mcsgsym) (via usaginobike)
(via kamaboko) (via s-takagi) (via hohou) (via shortcutss) (via shinoddddd) (via udn4)
「何で日本はこんなに治安が良いんだろう」という屈託のない会話に僕は既に答えを持っていたが、宴席にふさわしくないと思い言わなかった。それは窮地に追い込まれた人間が、犯罪者になるより自らの死を選ぶ確率が、他国より遙かに高いからだ。
— 窮地に追い込まれた人間が、犯罪者になるより自らの死を選ぶ確率が、他国より遙かに高い (via tiga)
(Source: shibata616, via udn4)
実は私も泥酔して行き倒れたことがある。大山の蕎麦屋の前で冬の朝方眠っていたんだが、大量のその辺の野良猫や犬や狸が私にくっ付いて寝ていて(あったたかったんだろな)朝方発見した蕎麦屋さんに「ブッダのようだった。」と言われた。
— Twitter / Rosary_ (via gearmann)
(via udn4)
なのでユニークな授業をたくさんやるわけです。受験勉強は勝手に自分たちでやれっていう校風なので、そういうことができるわけですが、そういうユニークな授業をたくさん受けて東大に入ってきた子と、地方の進学校で、かつて問題になった単位未履修で世界史さえ勉強しないで東大に来る子たちとで、特に女子の学生に多いんですが、文字通りカルチャーショックを受けて不登校になってしまう大学生が増えているんですね。そこまでひどくなくても、僕は大学院でこの話必ずするんですが、そうすると授業終わりの質問表に、「私もそうでした」って書く女子の大学院生が必ず数人います。もう宇宙人がしゃべっているようだったと。
今の東京の御三家と呼ばれる、桜蔭とか双葉の子たちっていうのは家がお金持ちっていうこともあってですね、コンテンポラリーダンスは見るわ、コンテンポラリーアートは見るわ、夏休みにはニュージーランドに2ヶ月ぐらい行ってるわで、ファッションセンスもいいと。18歳の女の子にとってはそれはショックですよね。地方出身で勉強だけやっとけば九大でも東大でも行けるからがんばれと言われ続けてきて。この科目とこの科目だけやれって先生に言われ続けてきてですね、頑張って東大まできたのに、まったく話が通じない。周りの人と。
昔はですね、逆転のチャンスがあったんです。三四郎の時代なら。熊本から出てって図書館に一生懸命通って、勉強して公務員試験に受かれば地方出身者にも逆転のチャンスはあったんですが、今は企業もセンスのいいやつから取りますからね。だって大企業の上場企業の8割がコミュニケーション能力を第一に考えるって言ってるんですから。コミュニケーション教育を受けられない地方の人はどうするんですか、せっかく東大に入ったのに。これは2、3年前にアエラが特集を組みましたし、最近も週刊現代かどこかが、「東大までの学生、東大からの学生」って8ページぐらいの特集を組みました。要するにエリート層であってもこういった地域の学力差ではなくて、文化的な差によって最終的に人生におおきな格差ができてしまう時代にきているんです。
だとすれば、地域の教育機関、あるいはこういった文化施設がこれをキャッチアップできるような政策を盛り込んでいかないと、地方はどんどん衰退していってしまう。スパイラル状に文化によって地方が衰えていってしまう。東京一極集中がとめどなく進んでいってしまう。ぜひそれを避けるために、地域、地方ほどですね、こういったコミュニケーション教育を進めていっていただきたい。
— 平田オリザ講演会『コミュニケーション教育に役立つ演劇ワークショップ』 (pdf)
(via chordstriker)
佐藤がオナニーを覚えたのは5歳の時だという[1]。その後も彼はオナニーを続け、就職活動中の大学3年時には無理な体勢での長時間オナニーを原因とするヘルニアを発症した。手術後の1ヶ月の入院生活中、佐藤は「これから自分は何をしたいか」と考えていた。ここで彼が出した結論はやはりオナニーであった。彼はふとしたきっかけで覗き込んだ典雅社のホームページに掲げられた理念に感銘を受け、思いの丈をしたためた長文メールを問い合わせフォームへ投げ込んだ。熱意が認められた佐藤はアルバイトで採用されることとなり、ヒット商品TENGA EGGを開発[1]。瞬く間に商品開発担当取締役まで上り詰めた。
— 佐藤雅信 - Wikipedia (via ibi-s)
(via udn4)
中1の時、学年中の靴箱の「田中」を「油虫」にして校長室に呼ばれた
— Twitter / The5seconds (via maximowiczii)
(via udn4)